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(宮崎浩さんは、当ボランティア協会の常任委員です。このコラムは、宮崎さんの体験を通した思いをつづったものです。)


ボランティア物語−75−
 
 「オヤジの会話」       宮崎 浩


 
同級生、男四人。「久しぶりに飲もうぜ」と居酒屋に集まった。
 10年ぶりになるだろうか。50歳を過ぎたオヤジの会が始まった。
談笑と言っても、その話題は、もっぱら、病気自慢から家庭内ニュース。
それでも、杯を重ねるにつれ、昔のやんちゃ振りを懐かしむと、オヤジたちの地声は大きくなっていった。
孫の誕生、昇進、栄転と何度、乾杯したことか。
 僕を除いて他の三人は、中堅企業の会社員。
それぞれ三人は、他業種だけど、どこかで仕事上の付き合いがあるらしく、仕事の話になると、一瞬にして真剣な表情を浮かべた。
「お前ら、会社人間じゃね」
と僕は茶化した。
 ゴルフの話題になった。
三人は一緒にプレイしたことが何度かあり、一層、話が盛り上がっていった。
 一方、ゴルフ経験ゼロの僕は、完全に蚊帳の外。
何やら、接待ゴルフで、絶妙な負け方があるようでその方法を伝授し合っていた。
こうなると、あきれて話に乗る気にもならない。
 そんな仏頂面の僕を見かねてか、話を振ってきた。
「まだ、ボランティアとかしてるんか」
もともと、三人のボランティア活動に対する思いは辛辣で、容赦ない言葉を投げかけてきていた。
「仕事が暇な人間しかボランティアはできない」
「会社で認められないから、ボランティアしてるんだ」「仕事が出来てからボランティアだろ」とかまで・・・。
以前は、むきになって反論していたけど、今は違う。
「どうだ、羨ましいだろ」




ボランティア物語−74−
  ファッション       宮崎 浩 

良さんのファッションは、そこらじゃ真似できない。
赤、黄、青のシャツにズボン。それは、原色に彩られてまぶしいくらいだ。
周りから、「先鋭アート」「派手男」などと評されても一向に気にしていない。
「シマムラ」が大好きで、電動車イスに乗って買い物に行くと「洋服を選ぶということは、自分の生き方を選ぶことなんだ」とか言って、がぜん張り切っている。
だけど、良さんに合う服は、なかなか見つからない。
「誰を基準に標準サイズがあるんじゃ」などと試着しながら愚痴っている。
しかも、原色という条件付きだから、見つけても子ども服売り場だったりして、店内を車イスで右往左往。
あきらめて何も買えずに店を出ることもしばしば。
 そんな良さん。最初に出会った時は、地味なオッサンだった。数年前に障害者施設から出て自立生活を始めたと聞いていた。
 その頃の服は、くすんだ色のスウェットばかり。
どの服の裏にもマジックで「良」と大きく名前が書かれてあった。
 良さんのファッションに変化が現れたのは、生活が安定してきた頃だろうか。
かの昔、服の色は、社会階層を示していたという。
紫、赤、青、黄。鮮やかな色の染料ほど貴重だったため、高貴な人間だけの服の色となっていた。
どうやら、この名残か。今も街行く人々の服は茶色か灰色。くすんで見える。
そんなこと知ってか知らぬか「障害者は目立たなアカン」と、良さんの本日の服は上から下まで緑色。
「良さん、それじゃあ、まるでアマガエルだよ」


ボランティア物語−73−
  優しい人       宮崎 浩 

友達に「お前は女と障害者には優しい」と言われた。
頭に来たので、そいつの胸ぐらを掴んで殴りつけた。
とは、ならず「へへっ」と笑ってごまかした。
 確かに、僕は、男友達に対してそっけない。話を合わせるのも面倒なぐらい。
 それが女性を前にすると饒舌になり、また、友達からすると、ボランティア活動をする僕の姿は、信じがたいものがあるらしい。
 かと言って、演じている訳でも何でもない。これが、僕のありのままの姿なんだ。
 こうも言われた事がある。
「仏さんのように優しい」
「えへっ」と照れていたら、
「勘違いするな。上から目線の優しさのようなんだ」
 ボランティアをしている時だった。直接、障害者から告げられて、僕は悩んだ。
思いを馳せても答えは見つからず、ボランティアをするのにもぎこちなくなり考えることをやめた。
それで、僕は人から「優しいね」なんて言われるとたじろいでしまう。
 ボランティア活動は、いろいろな「優しさ」にあふれている。
性質が悪いのが、白々しい優しさ、鼻に付く優しさ、仰々しい優しさ、当て付けの優しさ。
 この優しさを発する者たちは、活動を離れると、相手の陰口をよくたたく。
 そもそも、「優」という漢字で思うのは、優勝、優秀、優越、優勢、優劣・・・。
優れている者が、劣っている者を救うという意味が根源にあるのだろうか。
でも、「優」という漢字を良く見ると「憂うる」の横に「人」が寄り添っている。すっと、さりげなく。
 僕は、こう在りたい。

ボランティア物語−72−
  
「平和と戦争」       宮崎 浩

ボランティアの語源は、軍事用語にあるというけど、平和の使者の感じがする。
だから「私はボランティア」なんて、自分から名乗るのは、何だかこそばゆい。
しかし、ボランティアという言葉を調べていくと、
航空軍事用語辞典のサイトには、こう書かれてあった。
「Volunteer. 義勇兵と訳され、職業でも義務でもなく、個人の自発的意志により第三者の紛争に参加して戦う人間の事。徴兵制によって招集された兵や職業軍人など紛争当事国の国家主権に対して奉仕を行う者は含まれない。・・・・。」
それは、正規軍に味方して侵略者に立ち向かう民兵。いわゆるレジスタンスだ。
でも、戦争には、どちらが正規軍なんて、どちらの大義名分が正義なんてない。
あると思うのは、僕らは、偏った報道に操られている。
テロリスト集団と呼ばれるアルカイダも義勇兵から始まった。彼らは、紛争を聖戦として自爆も辞さない。
独立紛争・民族紛争・国際紛争。今、世界で40以上の争いが起き、23億人以上の人が、この紛争の影響下にあるとされている。
世界人口の三分の一だ。
今この時にも、義勇兵は、自らの信条や宗教を重んじて、武器を手に敵を殺める。
「彼らは、自らをボランティアと名乗るのだろうか」
でも、やっぱりボランティアに武器は似合わない。
集団的自衛権の行使が、閣議で容認された。
戦う姿勢が、平和をもたらすという矛盾を抱え、戦う理由も曖昧なまま、非戦国家の矜持が揺れ動く。
もし戦争になってしまって『ボランティア募集』など言いでもしたら許さんぞ。


ボランティア物語−71−
 
 「若い力」       宮崎 浩

腰痛持ちの僕が、AKB48を歌うとこうだろうか。
「あっ痛かった。あっ痛かった。あっ痛かった。いてっ!急に〜♪」なんてね。
しかし、AKBはすごい。
「若者が元気だと社会も元気」というのが僕の持論だ。
市内の高校生たちが自主運営するボランティアサークル「のばら」を率いてきて30年になる。
最初は、ボラ協で始めた高校生ボランティア養成講座「寺子屋」からだった。
あの頃は、青少年の健全育成と指導者ぶっていたけど、今となっては、そんなことなど、もうどうでもいい。
「大人の価値観だけで指導して、高校生たちのエンパワーを閉じ込めておくのは、実にもったいない」と気がついた。
だから、今は同じ仲間。
「のばら」の一員でいる。
でも、少々無理があるのか「高校生たちから遊んでもらってよかったね」と妻は、見事に言い当ててきた。
しかし、昨今の高校生は、課外に塾に模擬試験にと、時間に追われ、ボランティアどころじゃないようだ。
「夢を持て」と言われても狭い校舎から何が見えるのだろうかと考えてしまう。
そこで「のばら」のモットーを高校生の自発的な活動と自由な発想とし、彼らと好きなことをやっている。
学校を離れて、いろいろな大人と出会うことで、彼らは、夢を抱くことだろう。
大人たちの中、上手にできなくてもいい。わがままでもいい。無礼でもいい。
一生懸命にやっている姿に「今の若いもんは、チッ」と舌打ちしながらも大目に見ようとしてくれる。
そんな許容力あふれる社会の方が、きっと楽しい


ボランティア物語 -70-
 
コーヤン       宮崎浩

「コーヤンありがとう」
 棺の中で眠った顔を見て、これしか言えなかったよ。
 コーヤンこと荒川孝一さん。僕たちに、たくさんの思い出を残して逝去した。
 それは、楽しい思い出だけじゃなくて、リフト付きのワゴン車を導入したり、
障害者の自立生活を支援するセンターを立ち上げたり、ふうせんバレーの全国大会を関催したり…。
 今、僕らの街で当然のように移ろいでいる物も風景も、その始まりの中心には、コーヤンがいた。
 「求心力」って言葉が、当てはまるならコーヤンだ。
 いつも周りにたくさんの人たちが集まっていたね。
 最初の対面はこうだった。
 山沿いの家、二階の玄関に、押入れを改造したエレベーターがあって、そこからコーヤンが昇ってきた。
「サンダーバードみたい」
「かっこいいやろ」
 出会った時から笑ったよ。
 それから、僕らはつるむ様にいろんな所に行ったね。
「こんな体験は始めて」とコーヤンが言ってくれるのが嬉しくて、大人の遊びと称しては、
夜のネオン街にも車イスで繰り出て行った。
 寒がりのマーヤンは夏でも熱燗。カラオケは「あの素靖らしい愛をもう一度」
 コーヤンが作曲した歌もたくさん。曲調はとても優しくて、これって人柄かな。
 驚いたのは、小さな機械で音符を一つずつ打ち込こんで楽曲を作っていたこと。
 筋ジストロフィーという病気をかかえて苦しいのに、いつも僕らを気遣い、その素振りも見せなかったね。
 なあ。コーヤン。生まれ返っておいでよ。頭脳明晰のコーヤンなら、難病を治す薬も作れるはずだ。


ボランティア物語 -69-
  
「銀二さん」   宮崎 浩

 昨年のプロ野球。日本一になったのは「東北楽天」。
 その中で、初めて銀次選手という名前を知った。
 そして、精神病院でアルバイトをしていた時のことを思い出した。
 患者の中にも、銀二さんという人がいた。図体がでかく、鋭い眼光をしていた。
「仁義が、銀二になった」と、こんな彼だから、病棟の中で、いかにも親分風で、患者や職員からも一目置かれていた。
僕はと言えば、「患者からなめられてはいけない」と職員からの教えを受けて、看守のごとく装っていた。
ある夏の炎天下。草刈作業の指導をしていた。
「バイトの兄ちゃんは、意気がらんでいいんじゃ」
声の主は、隣で草刈をしていた銀二さんだった。汗で腕の刺青が透けて見えた。
 僕と目が合うと、ニタッと笑った。思わず、僕もニッと笑い返した。
 別に銀二さんにビビッた訳じゃない。ずっと自分らしくない態度で仕事していると思いつめていた。
「銀二さんには、見抜かれている」そう思った。
 休憩時間。患者たちのタバコに火をつけて回った。
「兄ちゃんも一服するか」
 銀二さんが、ポケットから湿気てヨレヨレになったタバコを差し出してきた。
 このタバコに火をつけ、銀二さんの横に座った。
 草の匂い。遠く青い空。
何だか重い仮面が外れたように気持ちがよかった。
この時から、銀二さんだけでなく、他の患者とも打ち解けるようになれた。
「兄ちゃん」が僕の愛称になり、気軽な存在になった。
 他の職員たちは、怪訝な顔してたけど、なめられないと僕の味は、わからない。


ボランティア物語-68-
  
おかあさん 宮崎 浩

母が亡くなった。
 母は肝臓ガンを患っていて、何度も危篤な状態から生き返って来てくれていた。
覚悟をしていたというものの足が震えた。
 だって、数時間前、「まだ三途の川は渡られん」と言っていたし、「気をつけて行っておいで」と僕を仕事に見送ってくれた。
 危ないと姉からの連絡を受け、急ぎ駆けつけた時も、「よいしょ、よいしょ・・・」と意識のない中、今度も戻って来ようとしていた母。
期待と希望を抱いた。
でも、急に、目を見開き、歯を食いしばり、もがき始めると、そのうち、呼吸が小さくなってきて・・・。
「頑張ったね。もういいよ」
僕は、静かに母の瞼を手で閉じた。家族が見守る中、
母は、天に召された。
「おなかは、すいてないね」が、母の口癖だった。
「私の背中を見ていたら、道は曲がらん」不良な反抗期。この言葉には、参った。
家族のために一生懸命に尽くしてくれていた母。
 どの風景も思い出がいっぱい過ぎて、整理がつかないアルバムみたいだ。
 母の亡骸を実家に連れて帰って、一緒に泊まった。
 朝、母が起きてこなくて、何度も冷たくなった母に頬ずりしては「起きて、起きて」と泣き叫んだ。
つらい、悲しい、切ない、むなしい、どんな形容詞を使っても表現できない。
 母が喜んでくれることを生きがいにしていただけに、抜け殻になってしまった。
 でも、そんな僕を、慰め励まそうと、たくさんのボランティアの仲間たちが、弔問に来てくれた。
「だから、おかあさん。俺は大丈夫だ」

ボランティア物語-67-
  僕の家 宮崎 浩

「じいちゃん、ただいま」
 玄関を開けて中に入ると、変わらない我が家の匂い。
座敷へ行き仏壇の前、線香をあげる。
「チーン」、鐘の音だけが響き、家中の窓を空けて回る。
 先々月、母が老人ホームに入った。だから、今はもう、この家には誰も住んでいない。
 父が亡くなってから4年。
それ以来、週末は、一人暮らしとなった母と過ごす事が、僕のライフスタイルとなっていた。
 日曜お昼、NHKのど自慢大会を見ている母の横で、パソコンに向かい仕事するのが慣わしだった。
 でも、もう誰もいない。
 母は、大腿骨を骨折してから歩行器で暮らしていた。
又、肝臓病のため、今まで幾度か意識を失くしていた。
この時、幸いにも誰かが居合わせており助かってきた。
「バーちゃんは、この家を守るのが役割なんやぞ」
 僕の無茶な命題に、懸命に応えようとしていた母。
 週三回のホームヘルパーに、姉も頻繁に帰って来た。
孫までも、介護にあたったが、一人暮らしはもう限界だった。
「住み慣れた家で暮らす」なんて、そう易々とは言えるものじゃない。
 でも、この家に母がいないと、やっぱり悲しい。
 父のタバコの煙ですすけた居間の壁紙。一旦、開けると閉まらないサッシ戸。
床下に抜けそうな座敷の畳。
雨漏りの痕が消えない天井・・・。
 築およそ50年。古くても、この家は、僕が育った家。
 子どもの頃、悪さをすると、母から押入れに閉じ込められた。その押入れの中、クレヨンの落書きが今も残っている。
「おかあさんのバカ」


ボランティア物語-66-
  戦争が始まったら 宮崎 浩

ユウジとタカとそして僕。
良さんの介護ボランティアをしている。
 僕たちは、時々、ミーティングと銘打って良さんの部屋で飲み明かしていた。
 焼酎と缶詰とソーセージ。
一番のつまみは、世間話で、夜明けまで語り合った。
 その話題の展開は、たいていユウジから始まる。
「なぁ、戦争が始まったらどうする?」
「山の中に逃げて隠れる。自分は死にたくないし、他人を殺したくない」と僕が答えると、タカが怪訝に、
「俺は、戦うね。戦わないと殺されるんだぜ。自分を守るためなら相手と闘う」
 スリムな僕とマッチョなタカ。体型も思考も違うのだろうか。
 でも、ここで議論する気はなく、ユウジに話を振った。
「俺は、仲間を集め武装蜂起する。クーデターを起こし、この国をのっとるんだ。そうでもしないと、この国は変わらないだろ」
「チョー過激。絶対、俺たちを誘うなよ」
 僕たち三人は、笑い合って、この話題は、これで終わりにしようと思った。
 重度障害者の良さんには、酷な話だと感じたからだ。
 場に迷いの沈黙が流れると、良さんから語り始めた。
「なぁ天安門事件で戦車を止めた男って憶えてるか?
俺も、あの男のように戦車の前に車イスで立ち塞がって、戦争反対を訴えてやる。
俺たち障害者っていうのは、非暴力の象徴と思わないか。
メディアと世論の力を借りれば、俺だって十分戦えるはず」
「スゲェ〜、カッコェ〜」
 僕たち三人、声がそろった。タカなんか、力の限りに良さんを抱きしめた。
「イテテテ、だから、暴力反対だっちゅうの」

ボランティア物語-65-
  
介護サービス 宮崎 浩

 只今、介護支援専門員、ケアマネージャーの研修中。
 一日、座りっぱなしなんて、仕事していた方がましだ。
 それに、この講師ときたら、テキストを棒読みするだけでおもしろくもない。
「介護サービスとは、・・・。ここ線を引いて下さいね」
 退屈しのぎに四色の蛍光ペンで線を引きまくったら、 日本一、派手なテキスト。
 しかし、この介護サービスという言葉には、違和感を覚え好きになれない。
「障害者に権利を!」と声をはりあげ、共に活動していた人たちは、今どこに?
安い焼酎くらって、夢を語り合っていた勢いは消え、お客様に成り下がったのか。
お客様の客は、客体の客。
問題に苦情を申せど、自分から解決する術はない。
「主体はお客様」と唱える法律自体から矛盾だよ。
しかも、介護サービスは、これ以下のことはしないが、それ以上のこともしない。
だから、提供する側も、法律で定められているから、「できぬものは、できませぬ」なんて言えるんだ。
ヘルパーさんは、蛍光灯を交換できないし、窓の内側は拭けても、外側はダメなんて、うちのバアちゃん、訳分らんって怒ってた。
そもそも「サービス」とは、付加価値のことだろ。
交わした契約以上のことをやって、始めて「サービス」と言えるのではないか。
介護に福祉に医療にと、何でもかんでも「サービス」と言っては、利用料金をせしめ取っている。
何とも浅ましいやり方なんだろう。
 日本全国一億二千万人が、みんながみんなお客様。
 主体がないから、責任をなすり合い、奈落の底に落ちていく。うわぁ〜。
 ハッ、寝てたんだ。


ボランティア物語-64-
  
嫌なヤツ  宮崎 浩

 ボランティア活動を始めてからおよそ30年。いろいろな人に出会ってきた。
 この中で僕の嫌いなボランティアたちを上げてみた。

「大したことないけど」と、 
謙遜しながらも、自分のキャリアを威張るヤツ。

「敬語じゃ堅苦しい」と、
年上でも相手が障害者だと、タメ口で話すヤツ

「障害者も頑張ってる」と、
差別していることにも気付かず感動しているヤツ。

「私が助けてあげよう」と、
ヒーロー気取りで思い上がっているヤツ。

「愛・夢・絆・未来・希望」
こんな美辞麗句に洗脳され涙しているヤツ。
「いいことしたなぁ〜」と、
ゴミ拾い一つに、自己陶酔してしまうヤツ。

「今の政治が悪いから」と、
これで問題すべて結論付けているヤツ。

「原発稼動は絶対反対」と、
声高に怒っていても、すぐに飽きてしまうヤツ。

「あ〜忙しい、忙しい」と、
止まると死んでしまうマグロみたいなヤツ。

「昔は良かったよなぁ」と、
思い出に浸り、未だに浮かび上がれないヤツ。

「世の中を変えてやる」と、
できもしない夢を熱弁しているヤツ。

本当に嫌なヤツばかり・・・。

あららら、全部、自分のことだった。


ボランティア物語-63-
 
権利の義務 宮崎 浩

「恥ずかしい話、大人になるまで義務教育の義務は、子どもにあると思ってた」
こう、良さんに打ち明けたら、「俺は、学校に行ってない」と意外な答えが返ってきた。
 良さんとの長い付き合いの中、そんな風には見えず信じられなかった。
「養護学校が義務化になるまで就学免除と言ってな、俺みたいな重い障害者は、学校にも行けなかったんだ。今でも、そういう子どもたちがたくさんいる」
 初めて聞いた話しだった。だけど、良さんは、難しいことでも、よく知っている。
 ますます、不思議な人だ。
「子どもの頃、入院ばかりしてたんだが、待合室のエッチな週刊誌が好きでな。こいつで字を覚えたんだ」
 嘘か本当かは知らないけれど、これも良さんらしい。
「では、質問。国民の三大義務って何だ?」 急に良さんから聞かれた。
 でも、簡単に答えられた。
「納税、勤労、教育さ」
「じゃあ、三大権利は?」
「えっ、そんなのあんの?」
 今まで学校で習ってきた授業。どの記憶をたどっても思い出せなかった。
「生存権、参政権、教育を受ける権利を言うんだ」
 一般正解率は、何%か?
 特に、義務教育を教わっても、教育を受ける権利を教わった感は乏しい。
 だから、僕は、従順に義務教育を受けてきた。
 群れる子羊のように・・・。
「教えることが義務ならば、学ぶことが権利。自ら学ばなければ、権利より義務が大事と刷り込まれるんだ。」
 またもや良さんの博識に感心した。
 「そんな、いろんな知識は、どこで覚えたの?」
「エッチな週刊誌からさ」 


ボランティア物語-62-
権利の矛先 宮崎 浩

人権週間記念講演会。
「国家斉唱、お立ちください」アナウンスが流れた。
「オラは、立てないよ〜」
良さんが、車イスの上でもがいている。
 良さんが言うところの「障害者ギャグ」。僕は、「またか」と無視していたけど、会場はざわめいた。
 サッカー観戦に行った時には、うけたギャグも、ここでは、少し趣向が違う。
「もうっ」恥ずかしくなって良さんを肘でこづいた。 
 良さんも周りの想定外な反応に戸惑っていた。
 その甲斐あってかどうかは知らないけれど、今では「お立ちください」というアナウンスはないらしい。
 この噂を聞いて、僕たちは、吹き出して笑った。
 こんな良さんだけど、時々、人権講演会ばりに、権利についておもしろい話をしてくれる。
「今の人権学習というのは、お涙ちょうだいの被差別体験談とか、弱者にいたわりや思いやりを持ちましょう。
などと感情をくすぐって人権を教えているんだ。
『差別をしてはいけない』と禁止事項ばかりじゃ人権なんて嫌になっちゃう。
 そういうふうに、人権を教わっていては、自分の権利など学習できやしない」
 確かに、良さんと親しくなるまでは、障害者だからと言って言葉尻を気にしてうまく話せなかった。
 まして、自分にも権利があっても、未だに主張するのにはためらってしまう。
「権利の矛先は、国にある」
 この時ばかりは、良さん、力を込めて言っていた。
「良さんこそ、人権講演会の演台に立ったらいいよ」とすすめた。
「オラは、立てないよ〜」



ボランティア物語−61−
  「10年にして」  宮崎 浩
「ボランティア物語」。
このコラムの連載を始めて10年を迎えた。
 さすがに60回を越えてくると、くじけそうで・・・。
こんな時、「読んだよ」と励ましのメールが嬉しい。
「ありがとうございます」
 さて、10年前というと、チャイルドライン北九州の立ち上げに関わっていた。
 以来、年間、千五百件以上、全国の子どもたちから電話を受けるまでになった。
 子ども専用電話のチャイルドラインは、悩みの相談電話でなく、何でも話しをしてもいいという電話。
 だから、子どもたちからのたわいのない雑談も多い。
 もちろん、いじめや虐待、自死念慮、性の悩み・・・。
 顔の見えない電話ゆえにありのままを語ってくれる。
また、雑談の中に様々な問題が隠れていることもあるから、どんな声にもしっかりと聴いていく。
活動の基本としているのは、安易にアドバイスはしない事。問題解決の糸口が見つけられるよう、子どもと一緒に考えていく。
とにかく話しを聴く事だ。
 「教育や福祉に携わっている人は『助けてあげたい』という思い上がりが強くてこの活動には向かない」と指摘されたことがある。
「すぐ問題解決を説いてしまうような大人は、子どもを自分に従わせたいだけ」と追い討ちをかけられた。
「悔しいけど、当たってる」
こんな自分に引き換え、若いメンバーは、辛抱強く聴き入っている。それは、あたかも子どもの隣に寄り添う友だちのように。
 「傾聴」と言うけれど、聴く側の人間が上から耳を傾けていては意味がない。
 10年にして見えてきた。


ボランティア物語 −60
 「百人の村」    宮崎 浩

「北九州市が、もし百人の村だったら」
北九州市の人口は、98万人。これを、誤解も恐れず、比率から100人の村として縮小するとどうなるのでしょうか。
さぁ、想像してみて下さい。
この村は、七つの地区に分かれています。
小倉北18人、小倉南21人。八幡西26人、八幡東8人。
門司は11人、若松は9人。
戸畑には7人が住んでいます。
この村には、47人の男性と、53人の女性がいます。
結婚している人は49人で、平均結婚年齢は、男性29歳。女性は28歳です。
18歳までの子どもは15人。
4人が乳幼児、小学生が5人。中学生は3人、3人が高校生などです。
18歳から64歳までが60人。
65歳以上の人が12人。
75歳以上の人は13人。
 村人の平均年齢は45歳で、
高齢化率25%は、全国にある大きな村の中で一番です。
そして、5人の高齢者が介護や支援を必要としています。
昭和40年頃の村人たちは、子どもが25人。大人が71人、高齢者は4人でした。
重工業で栄え、村のどの地区も活気であふれていました。
その代わりに、村の自然は、ずい分と汚染されていました。
しかし、近年、村には自然が、少しずつ戻ってきたようです。
この村を語る時、忘れてはならないことがあります。
日本で最初に空襲に遭ったのは、この村です。
さらに、八月原爆の日。
この日、この村が、晴れていたら、村人たちは、そして、僕らは・・・。


ボランティア物語 −59−

風船バレー
      宮崎 浩

 小川さん憶えてますか。
 市内ボランティアサークル間の交流会を計画しようと、会議をした席上のこと。
 「レクをしたら、障害者は、置いてきぼりで、ボランティアだけが楽しんでいる」 小川さんの発言でしたね。 
あの頃のボラ協には、各区に地域活動部があって、小川さんが率いる「はーもにー」というボランティアサークルは、とても活発に交流会を開いていました。
「行なうほどに悩ましい」 意外にも小川さんのジレンマを聞いたようでした。
 でも、この難題をみんなで話し合い、生まれてきたのが「風船バレー」です。
「チーム内、みんな一度は、風船にふれて返すこと」 どこにもない、このルールには、小川さんの思いがこめられていたのかもしれません。
 確か、この風船バレーを試したのは小倉北体育館。
「こまかなルールは、ゲームをしながら」と実にいい加減ながらも、楽しくって、最後の方には、何だか試合らしくなってきましたね。
 今や、振興会によりルールが定められ「ふうせんバレー」となって、全国に広がってきました。
 この中で、ずっと全国大会を支えてきた小川さん。
 先日は「小川恭弘さん応援カップ」が聞かれました。
 長崎、大分。遠くは、大阪からと、たくさんの仲間たちが、小川さんに会いたくて集まっていましたね。
 小川さんはすごい人です。
「みんなが喜んでくれたら、こっちも嬉しい」いつも、こんなこと言ってましたね。
 でも、これって、ボランティア活動の基本ですよね。
 ありがとう小川さん。
 ご冥福をお祈りします。


  宮崎浩ボランティア物語 −58−
 いろんな心      宮崎 浩

「心もケガすりゃ、風邪もひく、だから、病院がある」
随分前のことだけど、学生時代、僕は精神病院でアルバイトをしていた。
これは、その頃、看護主任だった、三宅さんの言葉。
三宅さんからは、教科書以上の事を教わった。
僕は、バイトとは言え、いっぱしの作業療法士気取りだった。だけど、仕事を始めた頃は、とんでもない。
鍵の掛かった重い鉄の扉。鉄格子のある窓。アルコール消毒の臭い。全てが生まれて初めての精神病院に緊張しっぱなしだった。
おぼろげな眼差し、にらみのきいた眼差し、入院している彼らとどう接すればいいの
か。迷いに迷った。
仕事は、病棟内作業で行なう紙箱づくりを手伝った。
誰一人として会話の無い作業に迷いが増していた。
それでも、本来、午前中だけの、バイトだったけれど、授業そっちのけで、午後からの
活動にも参加していた。
卓球、野球、休操、将棋、遠足、運動会、文化祭…。
みんなと笑う中で迷いが解けていく喜びを感じていたのかもしれない。
更に、三宅さんの語録は、「心は乱れるもの。乱れなきゃ心じゃないよ」
「いろんな心があっていい。それが人間なんだ」
これらは、哲学みたいで、僕の頭に「??」が並んだ。
今なお、結論めいた事は、言えないけれど、これまで、いろんな心と触れてきた。
例えば、こんな心やこんな心、こんな心にこんな心。
仮想を進めれば、明朝体で整然と並んでいるこの紙面は、現代社会だろうか。
そして、どこまでが、許される心なんだろう?
僕は心かな。あなたは?


ボランティア物語 -57- 
優しい鬼   宮崎浩

僕は、社会福祉施設従事者。いわゆる、施設職員だ。
この職に就いて25年になるが、周りからは「らしくない」なんて言われる。
けれど、良さんだけは、僕の仕事を見事に当てた。
「ほっといて欲しいことまでしてくれるからな」と、意外な理由だった。
「歩けるのに車イス、眠たいのに起こされて、満腹なのに食べさせられる。一人で外出はダメ、タバコもダメ、酒なんかとんでもない」
良さんは、施設生活をしていた時の話しをよくする。
「自分でできる事、したい事を「あなたの為よ」と、ことごとくとがめてくる」
良さんは、そんな施設職員のことを「優しい鬼」と皮肉をこめて言っていた。
いい気分じゃない。僕だって「優しい鬼」だ。

例えば、良さんには「飲め、飲め」と酒をすすめて二人で酔って雑魚寝する。
仕事じゃできっこない。
安心・安全という名の元、施設の入園者の前では、僕も「優しい鬼」になる。
救急搬送された人。警察保護された人。そして、多く人の最期を見送ってきた。
入園者のケガや病気を未然に防ぐ方法は、彼らの自由な行動に制限を課し、管理することだろうか。
それは、まるで繭玉に包み込むよう言いくるめる。
入職してまもなく、ある入園者から、ノートの切れ端を渡された。そこには、こう書かれてあった。
「窓際に 花を置いてもここは刑務所」
息を呑み、天を仰いだ。
以来、入園者の自由と管理の狭間で、どうしても心が揺らいでしまう。
良さんに言ってやった。
「優しい鬼もつらいんだ」


ボランティア物語 ―56―
修行の旅B   宮崎浩


 朝のお勤めが終わって、弘法大師空海が眠るといわれる奥の院へ向かった、
 ここは、まるで黄泉(よみ)の国。
 およそ2キロに及ぶ参道には、戦国大名の五輪塔や戦没慰霊碑、風変わりな企業の墓碑などが立ち並ぶ。
 霧がかかり、石畳の道は湿っている。苔むした墓標たちはそびえる杉からの漏れ日に照らされてまぶしい。
 日本の美に感動しながらも、気付くと早朝で誰一人としていない。霊感にうとい僕でも怖くなってきた。
 「何か歌おう」と出てきた曲は、森のくまさん!
 「ある日森の中〜♪」と、一人で輪唱しながら、元気に歩を進めていくと元気が出てきて、まもなく御廟所(ごびょうしょ)に着いた。
 そこは、先程までの静けさが嘘のよう、多くの参拝者と僧侶たちとの読経が響き渡っていた。
 物見遊山の観光客も、さすがに神妙な顔つきだ。
 僕もにわか信者になりすました。
 「南無大師遍照金剛」
 静かに手を合わせ、弘法大師に問うていった。
 「この閉塞感。私はこの先どうすればいいのですか」
 しばらく目を閉じた。
 そして、周囲の音が消えた時、宿坊で手にした本の一文が脳裏をかすめた。
 「もしも、あなたの部屋の中に毒蛇がいたら、あなたは、どうかしてでも毒蛇を追い出すでしょう。毒蛇はあなたの苦悩。部屋とはあなたの心です。」
 ややこしいけど、僕の中に心があるのじゃなくて、心の中に、僕がいる。
 思えば今まで、自分の心の不甲斐なさにかまけて、何もやってこなかった。
 悩みを解こうと出た旅も、結局、最後は自分次第。


ボランティア物語 ―55―
修行の旅A   宮崎浩

霊峰高野山の夜は冷える。まだ10月というのに部屋に暖房を入れた。
 修行体験の第2弾、深呼吸をして写経に向かった。
 写経といっても、薄く書かれた般若心経を筆ペンでなぞる。それでも、日頃、筆を使うこともないから、四苦八苦、心を無にして、祈りをこめて書いていった。
 宿坊の寺は、世俗の音が無い。そそぐ暖かな風の音だけが聞こえた。そんな中、「シュール、ポポシュ…」
 ふすま一枚へだてた隣の部屋から声が聞こえてきた。
 それは、夕方、見かけたフランス人の女性の声だとすぐにわかった。
 「仏の国から来ました」
 冗談交じりに自己紹介していた10人程の団体に、フランス映画に出てそうな超綺麗な女性が2人いた。
 話しかけたかったけれど、今は修行の身。ましてや、3までしか数えられない程度のフランス語力では、どうしようもなかった。
 気を取り直して、写経を続けたが、声が気になる。
 何を話しているのか、さっぱりわからないけれど、耳元で廿く囁かれているみたいでくすぐったい。
 「ふすまを開けたろか」
 集中できない情けなさに、筆ペンを放るとその場に寝転び、思いを巡らせた。
 般若心経は、こう説く。
 「世の中のあらゆる存在(色)は、感覚から得られた印象にすぎない。
 印象ゆえに実体はなく、移ろう夢のよう(空)だ。『蝶々は綺麗で蛾は汚い』これも人間の勝手な印象。
 こんな無為な価値観に執着していてはいけない」と。
 「今、これって色即是空?」ティッシュで、耳栓して、ふたたび筆ペンを走らせた。


ボランティア物語 ―54―
修行の旅@    宮崎浩

 物は申せども何もしない。そんな安っぽい評論家のような自分に嫌気がさして「これは、修行に行かねば!」と決めた。 
修行の地に選んだのは、霊峰高野山。弘法大師が広めた真言密教の聖地だ。
 電車、ケーブルカー、バスを乗り継いで、山深い秘境の地へ。と、思いきや、そこは世界遺産の地だった。 観光バスが並んでいて、老若男女の日本人、外国人が、土産屋に群れていた。
 いちゃつく男女を尻目に「喝」を入れ、宿坊となる寺の門をくぐった。
 奥から作務衣を着た若い僧が出てきた。お坊さんからの接待なんて妙な気分だ。
 部屋に通されると、まもなくして瞑想「阿字観」に案内された。
 「宇宙の源である梵字の『○=ア』を唱えます。  ※○の部分に梵字を入れて下さい。 長く吐く息、吸う息に、『アー』の音を観て下さい。
 座禅は無ですが阿字観は宇宙と一体感を得ることで何かが見えて参ります」
 「よしっ、最初の修行だ」と半跏蜘座を組み、半眼で、心を鎮めた。が、そんな気合に反し、急に股間がむず痒くなってきた。
 「ガーと掻きたい」しかし、両手は、へその前で印相を結んでいる。  痒みの絶頂、「アー」と声が震えた。
 そうこう、しばらく悶えていたけれど、知らないうち痒みがとれていった。
 気が付けば、ゆるやかな時間が流れていた。
 「そうだ!宇宙って時間のことなんだ。」
 とかく僕らは急がしくって忙しい。だから、急げぬ人を急かしたり、罵ったり、憐れんだりしている。
 「あっ見えてきた」心が亡くなると書いて「忙しい」。


ボランティア物語 ―53―
「正義の味方」   宮崎 浩

 あるボランティアの会合で自己紹介をした。
 「私の趣味は、海、山、歌、酒、ボランティア」
 さらに注目を向けようと「小魚釣って、小山を登って、ゴスペル叫んで、美酒に飲まれて、ボランティアは・・・あれっ?」
 聞いていた人たちは、この戸惑いを笑ってくれたが、ボランティアについてのエピソードが出なかったのはジョークではなかった。
 同時に、自分の中のボランティアは、やっぱり趣味ではないと確信した。
 僕がボランティァを知ったのは30年前、ジュンという同級生と出会ってからだ。
 ジュンは、重い障害がありながらも、大学に入学した後、アパートを借り一人幕らしを始めた。
 ジュンと同じクラスになった僕らは、彼のボランティアを募っていった。
 車いすでの通学、トイレ、入浴、泊まりの介助は男子、食事の用意は女子と、たくさんの仲間が集まった。
 みんなは、ジュンのアパートに入り浸り、毎日楽しくにぎやかだった。
 しかし、それは半年も経たず、次第にみんなの足は遠のいていった。
 違うサークル活動やアルバイトに散っていった。
 また、ここで出会い、恋が芽生えた二人は、ほとんど来ることもなくなった。
 ジュンがぽつりと言った。
 「趣味感覚の人じゃボランティアはつとまらない」
 その昔、ボランティアは特別な存在で、僕らはおこがましくて名乗れなかった。
 今や趣味の域。空き缶一つ拾ってもボランティアだ。
 「正義の味方! ボランティア」時代をさかのぼってもいいのかもしれない。


ボランティア物語 -52-
「希望の工―ル」宮崎浩

東日本大震災での惨状を見るたびに心が痛む。
最大級の地震、津波による崩壊、原子力発電所の事故、大規模停電、株価暴落。
地球の変調の前に、生命はもろくも消えていく。
ニュースは、非情な画面を繰り返し、恐ろしげに語り、更に不安を煽ってくる。
目をそむけたくなるが、気になり、また見てしまう。
何だ。 この胸が締め付けられる思いは。
何だ。この足が震えるような感覚は。
 喪失感、悲哀感、恐怖感、焦燥感、不信感…。
苦しくて、つらくて暗い。
こんな気持ちを引きずっている時、僕が世話する高校生ボランティアサークル「のばら」の、子どもたちからメールがいくつも届いた。
「僕らで何かしましょう」
「募金活動をしましょう」すぐにメールを返信した。
「そうだね。よし、やろう」
僕自身が、彼らの熱意に後押しされた気分になった。以前、北海道であった有珠山噴火での災害ボランティアに参加したことがある。
被災地の人たちから聞いた声が忘れられない。
「ボランティアからいただいたのは、支援金、物資、復興作業はさることながら、一番は、『希望』だった」
人の行動源は、二つあるといわれる。一つは不安。もう一つは希望。 
不安にさいなまれる者は、武器を取り、保身に走る。
希望に満ちあふれる者は、夢を抱き、愛を育む。
自発を重んじるボランティアなら、後者でありたい。応援する側が、不安にすくんでいてはダメなんだ。
いつもより僕らが、元気を出して、被災地に届けよう。
『希望のエール』


★ボランティア物語―51―
  「再会の握手」宮崎 浩
「ウソだろう」
思わず僕は、この場から逃げ出したい思いになった。
それは、知的障害者の施設を訪問した時のこと。
僕がボランティアに入る工芸班のリーダー「カズオさん」が紹介された。
なんと彼とは同郷だった。
それに、僕が小学生の頃、友だちとつるんでこんなことを彼に対してやっていた。
「やあい、カズオ。悔しかったら、こっち来てみろ」
 冷やかす僕たちの声に筋骨隆々の青年は、怒りの形相で、拳を振り上げてきた。
「きた、きたぁー」
歓声を上げて、僕たちは散り散りに逃げた。中には石を投げつける者もいて、
間もなく彼が帰って行くと、
「カズオが逃げていくぞ」
「やったー」と僕たちは勝ち誇った顔を見合わせた。
 その頃の僕の町といえばずっと田畑が広がり、鶏や豚を飼っている家もあった。
 彼は養鶏場の仕事をしていたらしいが、汚れた服を着て、独り言を言いながら、いつもブラブラしていた。
遊びに飽きた僕たちは「カズオを探そう」と養鶏場まで自転車を繰り出した。
 親たちは、そこに行ってはいけないと告げていた。
 先生は、差別をしてはいけないと教えていた。
 僕たちは、大人の言う矛盾を深く考えたりしなかった。むしろ、してはいけないことをやりたがった。
 差別という名の「寝た子」が、心の中で未だに起きてくる。
どうしたらいいのだろう。
 彼に気付かれないように「初めまして」と挨拶した。
 彼は、しばらく僕の顔を見ると、右手を出してきた。
 しっかり握手した。僕は「ごめんなさい」と呟いた。

★ボランティア物語 ―50―
 「聖と俗」 宮崎 浩  
このボランティア物語を連載して、今回で50回を迎えた。
でんしょ鳩が、年6回の発行だから、8年を越える。
ずっと書いていると、意外な人から「楽しみに読んでるよ」と言われたり、中には感想を知らせてくれる人もいたりして、どこかで誰かが何かを感じてくれている。
そう思うと本当に嬉しい。
そこで、初回からの原稿を読み返したけれど、偉そうなことばかり書いてあった。
「であい、ふれあい、たすけあい」などと、こんな美辞麗句を並べながらも、僕の心には、聖と俗の世界がある。
それは、滅多にないことだけど、ボランティア活動をしている時や介護をしている時、ふと、差別的な感情が込みあがり、心の中で葛藤が始まる。
丁度、左右の耳の横で、神と悪魔が現れてくるように。
このコラムによく登場する良さんを介助している時でも、「障害者だから…。」と見下してしまったり、「障害者のくせに…。」とイラッときたりする。
さすがに、言葉には出さなくとも、態度は明らかだ。
 その都度、「違う、違う。」と目を閉じ首を振ると、悪魔が退散していく。
辛 淑玉さんは、こう言う。「『差別は享楽だ』。自分は他者より優位だという感覚は『享楽』そのものであり、一度その享楽を味わうと、何度でも繰り返したくなる。
特に人は、自分より強いものから存在価値を否定されたり、劣等感を持たされたりしたとき、自己の劣等意識を払拭するために、より差別を受けやすい人々を差別することで、傷付いた心のパランスをとろうとする。」
時々考える。「聖と俗にゆらぐ僕が、ボランティアしていいのだろうか?」


ボランティア物語1 (再掲載)
  はじまり
宮崎 浩
 「わたぼうしコンサート」。どんなものかも知らず、彼女に誘われるまま付いて行った。
小倉市民会館の一番後ろの席、足を投げ出し座った。
禁煙の表示を見て舌を打ち、彼女にガムを催促した。
「ねぇ、志望校提出した?」
ガムの包みを取りながら彼女は言った。
「行きたい大学なんてないと書いたら、呼び出しくらった」
「あたり前じゃん」
「ないものはないんや」
 ここまで来て受験の話かと少し腹が立った。
受験のプレッシャーにあおられ勉強している者が、愚かに見えた。
でも、周囲にとやかく言われると面倒だから、学校には、ただ顔を出していた。
高校三年の秋。何もかもが、おもしろくなかった。
 開始のブザーが鳴り、会場が暗くなった。幕が上がり、音楽が聞こえてきた。
 スポットライトの中に車イスに座った男性がいた。
それは、初めて障害者を見る衝撃的な場面だった。
 彼が、今、流れている曲の作詞を手がけたという。
 この後からも、杖の女性や目の見えない男性が、作詞した曲が演奏された。
 音楽に鼓動を感じると、「何?」「何?」が頭を殴りつけ通り過ぎて行った。「どうしてだろう。」とても痛くて、たまらず涙がこみあげてきた。
現実に言い訳つけて、座り込んでいた自分に声が届いた。
「始めないと始まらないよ。」
 涙があふれ止らない。こんなに涙は熱いものなのか。 
 フィナーレでは、隣に彼女がいることなんか忘れ、恥ずかしくもなく、ステージに上がり一緒に歌っていた。
 将来、福祉の道に進もうと決めた時、口の中しょっぱいガムの味がした。


●ボランティア物語 −49−
子どもは社会を映し出す鏡 
宮崎 浩
 

子ども専用電話「チャイルドライン」の活動をしていて、一番腹立たしいのが体罰だ。「学校に行きたい。でも、あの暴力教師の車を見ると校門を通れない。」
不登校のレッテルを貼られた子どもは「あの教師のせいだ。」とも訴えられずにいた。
思えば、僕らの学生時代は、体罰が普通にあった。
遅刻すると正座、忘れ物にゲンコツ、規則違反にはビンタ。教師の機嫌次第では殴られもした。
私物検査の度、髪をつかまれ、やじられた。ついには「私は天然パーマです。」と証明書を提出させられた。
それでも、これは差別行為とすら認識できなかった。
唯一の反抗は、唾を吐き捨てる思いだけだった。
この時の後悔が、活動の元になったのかもしれない。
「無能な教師ほど、暴力に頼るんだ。」
「愛のムチなんか錯覚だ。」
チャイルドラインに届く子どもの声は的を射ている。
以前、市内の高校生に「子どもの権利」についてアンケートをしたところ、知人の教師から電話があった。
「下手に学校に権利を持ち込むと集団秩序が乱れてしまう。あなたの意図を確認したい。」
学校でも家庭でもそうだ。
子どもは、大人に対して従順でなければならない。
大人たちもまた、弱き者は貝となり口を閉ざし、強き者の力にひれ伏している。
自らの権利を知らない大人が、どうして子どもに権利を教えられようか。
「欧米は、子どもを育てているが、日本は、子どもに育てている。」
夢を抱けない子どもの姿は、今の社会を映し出す。



ボランティア物語 48
障害の権利とは〜帽子の思い出〜
宮崎 浩


良さんは、もう何年も同じ帽子をかぶっている。
「その帽子はいい加減にくたびれちゃってますね」
「俺とおんなじさ」
と冗談でかわしながら、とつとつと古びた帽子の思い出を語り始めた。
「この帽子は、障害者施設にいた時、初めて自分で買った物なんだ。この帽子が絶対に欲しいって思ってね。そこで職員に相談したら、少し待ってと言われ、でも、待てども手に入らないから、しつこく何度も訴えたら、わがまま言わないでと・・・」
「そんなに欲しかった?」
「今、思えば帽子が欲しいというよりも、今まで、与えられた物で満足していた。でも、それでは自分らしさがない。と気づいたんだ」
「それでどうしたの」
「初めて自分で買いに行ったよ。あまりにも嬉しくて施設の中でもかぶっていたら、今度は、部屋の中では帽子を取りなさいと」
「このことが施設を出たいと思ったきっかけなんだ」
「いや、まだそんなこと考えられなかったけど、自立生活を始めてわかったんだ。これが、俺がした初の権利の主張だったのかなって」
「権利の主張?」
「そう、障害者は、義務を果たしてもいないのに権利を主張するとは何事か。弱者は、それらしく生きろって知らずに身についていて主張なんてできなかった」
一方、僕らが学んできたことというと、「弱者に対してのいたわりや思いやりを」と吹き込まれてきた。
だから、逆に主張されると引いてしまうことがある。
「権利をわがままと訳していては、何も変わりやしない。本来、権利(rights)は、正しいと訳されるんだ」


ボランティア物語47
「命の重さ」宮崎 浩 
                    
 父が亡くなって1年が経った。心の中の記憶から消えてしまった時が、本当の死と言うから、僕の中では、父はまだ生きている。
 父が肺炎で倒れてからの1週間、姉と交替で病室に泊まりこみ看病した。心拍数、呼吸数、酸素濃度のモニターの数字に一喜一憂し、警報ブザーの音は、今も耳について離れない。
 父は苦しんだ。両腕をベッド柵に縛られ、口にくわえ込まれたエアーチューブを舌先で吐き出そうともがいていた。 「男は泣くもんじゃない。」と言っていた父。そんな強気な男が涙にくれた。
「がんばろうね。」僕らも父の胸で泣きじゃくった。しかし、呼吸する力も尽き、父は最期を迎えた。
 母、僕の家族と姉の家族が病室に集まった。 最後に駆け込んだ僕の息子が「じーちゃん。」と叫ぶと意識もなかった父が、わずかに目を開けた。父は、みんなが揃うのを待っていてくれたのか…。
 そして、静かに逝った。81年の人生が一瞬の閃光のように消えていった。
 不思議なことがあった。
 父が亡くなる前日、カゲロウが一匹、病室の扉にとまっていた。そして、通夜の斎場にも、それがいた。
 わびしく、はかなく、むなしくも、ふれる風にその薄い羽を揺らしていた。
「人の命は地球よりも重い。」と例えられているけど、地球をかかえたことはないから、実感がわかない。
 「人の命は小さな虫の羽よりも軽い」。
軽いからこそ、愛しく、大事にしなければ、命は、もろくも壊れてしまう。


ボランティア物語46

「罪と罰」 宮崎 浩

良さんの部屋で裁判員制度のことを話していると、良さんが、車イスからズルズルと下りてきた。
これは、いつもの熱弁が始まる前兆と、僕は床に置いていたビールとつまみを端によけた。
「この前、母親が自分の子を殺した事件があったろう」
「福岡の事件ですね」
「母親は病弱で、その子には障害があったそうだ」
 思いもよらず、良さんは淡々と話しを続けた。
「昔からそう、障害児を殺した親には、減刑にする嘆願運動が起こるんだ。この悲劇は、遅れた福祉行政に原因があるとしてね」
「わかりますね。重介護に加え、将来を悲観してしまうのが、今の社会ですから」
 僕がそう答えると、良さんの態度が急変した。
「じゃあ、聞くけど、殺された子どものことは何もかえりみないのか。それは、俺たち障害者は、殺されてもやむを得ないという存在にならないか」
僕は混乱した。普通に抱いていた社会通念から、母親に同情していた。
しかし、同情されるべきは、殺された障害児の方のはず、偽善は差別を生んでいたのか…。
「殺人の量刑は、懲役十年と言われる。でも、肉親が障害者を殺めると、たったの三年から五年。執行猶予がつくこともあって、交通事故より罪が軽いんだ」
興奮をおさめようとしたのか良さんは、ビール缶に刺したストローで一口飲んで聞いてきた。
「法の下では、誰もが平等のはずだろう。もし、この公判で裁判員に選ばれたとしたら、君はどう裁く?」


ボランティア物語45

「ともだち」 宮崎 浩

「明日、近くにできたショッピングセンターに行こうぜ。」というタケシからの誘いに僕は応えた。
「いいよ。友だちも連れて行ってもいい?」
「ああ、じゃあ、11時公園で待ってるな」
 あくる日、僕はクリと一緒に公園に向かった。
 クリは、僕と同じ中学三年生。ただ、車イスを使っていて、僕らとは違う学校に行っている。小学校の時、キャンプで知り合ってからの友だちだ。
 タケシは、クリを見て、すごく戸惑っていた。
 それでも、クリがいつもの調子で、おどけて話しかけるものだから、すぐに、僕らはうちとけた。そして、知らぬ間にタケシが、車イスを押して歩いていた。
ショッピングセンターの中でも、僕らは冗談ばかりを言い歩き回った。 
タケシが、ハンバーガーを食べさせると、クリの顔が、ケチャップでドラキュラみたいになった。
 ゲームコーナーのプリクラで、どうしてもクリの頭しか入らなくて、タケシがクリを背負って写った。
 トイレ介助。クリを支えるタケシまでが一緒になって力んでいた。
 いろんな場面で、僕らは、体がよじれるくらいに笑い合った。
「じゃあ、またな」。クリを家まで送ったあと、タケシは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「障害者には、特別に優しくしなくてはいけないと思ってたけど、友だちでいいんだな」
僕も同感だ。
「友だちなんだから…」


ボランティア物語44

子どもの世界 宮崎 浩

 「ユゲ、ボール、取って・・・」
 数人の男の子たちが、ふざけ合いながら言ってきた。
 「もう、またか。」そう言ってユゲが部屋を出た。
 途端、ユゲに「抱っこ」としがみつく女の子。「カンチョー」とお尻に指差す男の子。
 ボールは、雨どいに掛かっていた。ユゲはジャンプしてそれを落とし、部屋に戻ろうとした。すると、
「また、引っかかったぁ」
 子どもたちの歓声に、ユゲはわざと転ぶ振りをした。
 子どもたちも真似して地面に転んだ。みんな笑顔に満ちていた。
 ユゲはある児童館でボランティアをしている。「ユゲ」と呼ばれる所以は、頭髪が温泉マークの湯気に似ていることかららしい。名づけ親はもちろん子どもたち。
 「最初はショックでしたね。子どもから完全になめられてしまったって」
 少し薄い頭髪をなでながらユゲは微笑んだ。
 しかし、今となっては、本名と思えるほどに「ユゲ」という名が浸透している。
 「この名で呼ばれることで気付いたんです。大人は、子どもから馬鹿にされまいと懸命になっている。しかし、子どもはそんな大人の虚勢をとっくに見抜いているんじゃないかと。それで無駄に威張ることをやめたら、子ども達は心を開いてくれたんです。『ユゲなら子どもの世界に入れてやる。』って」
 「時々『ハゲ』と聞こえることもあるんですけどね」とユゲは気さくに笑った。
 ユゲは、子どもの権利を守るオンブズパーソンを目指していると言う。
 「しょぼい大人たちからは、なめられたくないんです」



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